窓辺の喫茶

表千家茶道、茶人を目指す。アート、音楽好き。HSS型HPSのため臆病なくせに好奇心旺盛。日常に思ったことの徒然を書く。

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平成の最初の日、最後の日

この時期にしては冷たい雨。平成最後の1日。

取り立てて特別なことはなく、部屋の物の断捨離を済ませてから休日にしては人の少ない電車で地元へ帰ってきた、窓辺喫茶亭主ミワコです。

 

いとこからLINEで、平成最初の日に親族でお寿司を食べに行ったという思い出を伯母が話していると連絡がありました。

私は小学生、そんなご馳走なのに全く記憶がない。母はというと行ってないと全否定!

たった30年前なのに正確な記憶やら記録やらないものなんですね(笑)

 

今日のことも次の改元には忘れてしまうのでしょうな〜

 

昭和天皇崩御の発表のあと、たくさんの儀式が報道されて世の中は自粛の沈鬱な空気が立ち込めた。テレビはそればかりだったのでレンタルビデオショップが流行ったとかそんな記憶はあります。

 

改元で世の中が急にガラリと変わることもないのだろうということは分かります。

 

でも、日本だけが元号に祈りを乗せて年を数えるという風習を残していることはとても雅でステキなことではないでしょうか。

また日本の歴史について振り返る機会でもあり、思いを致して明日に向かうのは悪くはないことです。

 

『令和』は海外へは英語で『beautiful harmony』と表現しているそうです。

新しい時代へ…なかなかにセンス良い!

 

念のため言いますが、右とか左とかの思想はないです。(そろそろこの本来の意味とはかけ離れた古臭くてアホらしい二元論やめないものかね。ダサいとすら思う。ゴホン)

 

天皇陛下と美智子妃の国民に対するお言葉や思いやりはいつもありがたかった。

両陛下の平和に対する思いは戦争を知らない世代の私にも深く伝わっています。

 

長い間、本当にありがとうございました。

感謝の気持ちしかありません。

 

 

https://www.instagram.com/p/Bw4WQQ5FvTR/

平成最後の日は雨でした。浄化の雨かなぁ。私は自宅の断捨離を決行してかなりスッキリ(笑)明日からの令和はどんな時代になるのかな。令和を英語ではbeautiful harmonyと表現するそうですね。私もそんな世の中を作る一員になれるように生きたいです(^ ^)#平成最後の日 #令和



 

 

【HSS型HSPの日々】片付けが苦手、それは持ち物の偏りによるのかも

もうすぐ平成も終わりですね。

残すはあと1日、その前に部屋の片付けをしたい窓辺喫茶亭主ミワコです。

 

ぶっちゃけて言いますと、

片付けが苦手です。

 

これは幼少期からのことで、母親も片付けが得意より苦手な人です。基本的に雑然とした家で成長しました。

友人宅に行くと、整然とした部屋に驚き慄いたものです。

 

このテレビドラマのような素敵なお家があるんだ!我が家に人を招けない!

 

あ、母親の名誉のために言いますけど本気で招けないほど汚くはありません(汗)

雑然としていて、家具なども統一感がないしオシャレじゃないと言うのが真実です。

 

私は輪をかけて自分の部屋の片付けができない子供でした。

足の踏み場がないほど散らかし、片付けてはすぐに散らかしの繰り返し。やりっぱなしのズボラな性格なんです。

 

片付けの本を読み漁り、近藤麻理恵さんの『人生がときめく片づけの魔法』で断捨離を決行!

 

この、ときめくものだけを残すと言う断捨離方法の発見は、私の脳内革命のひとつです。

片付けが苦手な人間にとって、未だにバイブルになりうる本ですね。

 

人生がときめく片づけの魔法 改訂版

人生がときめく片づけの魔法 改訂版

 
人生がときめく片づけの魔法2 改訂版

人生がときめく片づけの魔法2 改訂版

 

 

 

ひとつの結論として私の中で学びがあったのが、

 

人が管理できる物は多くはない

 

ということ。

それから物を増やすは着物意外と制限付きですが、慎重です。

半分強迫的に物を増やすと部屋が乱れるという呪縛に捉われることにもなっていました。

逆に増やさなければ部屋は乱れないはずという思い込みにも捉われる結果に。

 

しかし、いくら物が少なくてもズボラなために片付かない。

仕事が忙しくなって心の余裕がなくなると、逆に意図的に散らかしたい衝動までもが生まれると言う悪循環。

恐らくは、職場ではキチンとしたキャラクターを演じているストレスの発散なのかなとも感じます( ´_ゝ`)

 

同時に片付ける頭も働かないんですな(笑)

 

そんな中、今更ながらなんで片付かないのかに気づいたのです。

 

この本がキッカケです。

 

まさしく私はこの筆者と同じじゃん!

 

ズボラ人間にはお洒落な収納とか、手間がかかる収納は向かないのです。

 

そして当たり前なんですけど、

 

物の住所が決まっていないと片付かない!

 

そんな物がたくさんあること。チーン…

 

入居時には物の住所を決めて片付いていたし、定期的に断捨離を行います。でも、散らかる。

 

なぜかと言うと、新しいモノを購入したり増えたりした時に収納場所を決めていないから。

 

おかしなことに物を増やしたくないの中に収納グッズも含まれていた!

 

アホすぎる…

 

 

でも収納グッズは買わないくせに、なんで新しい物が増えるんだろう…

 

大きな要因のひとつがHSS型HSPの頻繁に発症する飽きっぽさや新しいモノを取り入れたがる傾向と結びつくのではないかと…

※HSS型が悪いんじゃなくて、片付け苦手と結びつくと私のようになるだけです。

 

さらに、収納本に決して載らない物も多過ぎるのかも(・Д・)

例えば、このような…茶道の必需品懐紙とか

 

 

今こそ無印良品週間を活用!

ポリプロピレンファイルボックス・スタンダードタイプ・ワイド・1/2約幅15×奥行32×高さ12cm 通販 | 無印良品

 

とりあえず、手のつけやすい洗面台下の収納から見直す。

ビフォーは載せたくないので悪しからず。カゴには入れていたけど、上部が利用できていませんでした。

 

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収納上手な方はもっと美しく魅せると思いますが、私の場合は分かりやすいことが重要。

中身のラベルもマスキングテープ。とりあえずこれで運用してみます。固定化されたらキレイにしよう。

使いにくかったら、変更できるしね。

 

今日の総括

 

1. やはり自分で管理できる物量はあるから定期的な断捨離は必要!

2. ズボラ人間は、すぐにはキチンとさんにはなれないので、自分の行動パターンに合った収納をしましょう!

美しさを求めると運用継続できません。

3. アイテムが増えたら住所を決めましょう!

 

自分への教訓です。

 

令和を綺麗な部屋で迎えたいから頑張るぞ!

 

では、また!

上野千鶴子名誉教授の祝辞に思う 女性の敵は女性だったりもする。

ゴールデンウィーク突入。休むけど課題残しっぱなしの窓辺喫茶亭主ミワコです。

 

いつも読んでいる勝間和代さんのブログを読んで

 

 

上野千鶴子名誉教授の祝辞は私も感動すら覚える素晴らしいメッセージだと思いました。

日本の最高学府である東京大学だからこそ、そして女性学のパイオニアだからこそ、目出度いだけのおべんちゃらではなく現実を語った祝辞であるのだと関心すらしました。

 

東大祝辞・上野千鶴子インタビュー 「当たり前のことを言っただけ」 (1/3) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

 

でも、批判する方もいるんですね〜(・ω・)

祝辞に相応わしくないとかなんとか…吐き気がするとかなんとか。

現実をありのまま伝えたのに老いも若きも日本の男性諸君には受け入れ難い言動なんですね。

 

私自身は四年制大学に進学させてもらいましたけど、両親は女性だからと高卒で就職、最大でも短大で就職させると考えていました。

成績も別段良くなかったので、妹と比較して期待していない娘だったと父にハッキリ言われましたしね。男子が欲しかった父親としてはそもそも娘の価値というのは低いものでもあったようです。

 

思い出したけど、四年制大学に進む時に女性の友人が嫉妬混じりに

 

「短大なら就職しやすいけれど、女性は結婚して退職するから四年制大学卒業なんて歳を取りすぎて就職大変だよね」

 

と言われたな。

関係なく、就職氷河期真っ只中で大変にはなったけど(笑)

 

 

お客さん相手の飲み会でも大手企業のオジサンに触られないとしても、

 

ちょっと太めの足が良いね

 

とか、

 

タイツより肌色のストッキングが好み

 

だとか気持ち悪い意味不明なセクハラは日常茶飯事。

反論できない下請けの女性ということで公衆の面前で恫喝されたり、会議室でオジサン3人に囲まれて詰められたりしましたね。男性が担当だった時はそんなことありませんでしたよ。

 

意図的にやってないにしてもね〜意図的でない方がより怖いな。

 

その大企業は僅かばかりの女性管理職がいますけど、同じように働いていても良い噂が立つことがありませんね。使えない男性管理職がたくさんいるけど、そこまでピックアップされて噂になることもないよなぁと客観的に思います。

 

オジサンだけが男尊女卑的傾向が強いのかというとそうでもないのは事実。

30代前半の男性でさえ、乳幼児を保育園に預けて働く女性に対して「妻が子供を置いて働くとか考えられない」とか普通に言う。

要するに俺が外で働くから、子育ては妻の仕事だよねと当たり前のように言っている。

 

私の場合は普段非常に優しい元夫。彼より給料が高くなった途端に冷淡な対応や仕事に対する文句を言われたこともありました。

 

その時に本性を見てしまったようで、この人と一緒に家庭を築くことへの虚しさを感じてしまった。

結局は女性は男性の添え物という考えなんだなと。

 

 

しかし、男性中心の社会構造や差別に女性が乗っかってるのが一番ゲンナリする。

 

性的な犯罪行為やセクハラを受けた女性に対して、犯罪者男性を擁護する言動の中年女性がとても多い。

 

露出が多い服装してたんじゃないの?

 

とか、

 

そんな危ない場所に行くから悪い、自分から誘ってるようなもんじゃない!

 

とか、現場を見たかのように決めつけるのだから。

そんな時は悲しい顔をして、私もセクハラ良く受けますよと言ってみるけど通じないのでさらに悲しい。

 

セクハラは大人の対応として飲み込め、性犯罪を受けても世間に恥ずかしいから口外しない。

こう言った泣き寝入りする状況にならざるを得ない裏側に想像力の足りない女性たちが関与しているのが現実です。

 

 

結婚していた頃、母親に夫の愚痴を漏らすと、

 

本人に言っちゃだめ。旦那さんは立てなくちゃ。

 

いつも父に好戦的な母がどの口をと思うような発言をしてビックリしたのでした。

 

かく言う私もかつては夫唱婦随が美徳と思い込むような封建社会的な考えの持ち主だった頃もあり、それにより自分の人生や自分の気持ちがどこに行ったのかわからなくなってしまったことに気づきました。

 

35歳で…

 

早かったのか遅かったか分からないけれど、そこまでは誰の人生だったのかボンヤリとした印象です。

 

今は夫婦であれば、お互いが精神的に自立して対等に話せること。

それに、専業主婦も役目を全うしているのであるから、対等な立場として話し合える伴侶と生活を共にすべきなのだと確信しています。

 

まずは、女性自身の性差別に対しての認識から教育や勉強が必要なのでしょうね。

日本はまだまだそのレベル。

 

男性優位の家長制度が、戦後の核家族家庭でも息づいて女性の思考を占領しているんですね。

 

一見、男女平等の社会に見せかけているけれども、これが大袈裟ではない私の周りの現実。

 

世界にはもっとひどい女性差別があるじゃない!それに比べたら日本は良いわよ。

とか、言わないでくださいね。これも巧妙な洗脳の罠にかかってるのだから(笑)

 

 

しかし上野千鶴子さんのような、データを元に論理的に真っ直ぐ恐れない物言いをされる方も一方ではいる現実は嬉しいことです。

私の周りにも起業する方や、企業の重要ポジションを担う頼もしく格好良い女性もたくさんいます。

子育てと仕事の両立のために新しい取り組みをしている会社に勤める女性もいます。

 

また、次世代を担う子供をしっかり育てる女性も役目に邁進しているから素晴らしいのです。

 

 

東大執行部の心意気に世の中捨てたもんじゃないなと感動してます。

令和の時代は女性である私たちが女性差別をなくすべく活躍する時代になるでしょう。

 

では、また!

オフィスカジュアルって何さ!着物より洋服が難しい私

ゴールデンウィークに突入。

人混みが苦手かつ3月からノンストップだったので、休暇なのに予定ガラガラの窓辺喫茶亭主ミワコです。

完全に脱力しております。

 

と、言いつつ今日は茶道と陶芸の稽古でした。

 

部署を移動してオフィスから出ることがちらほら出てきたため、スーツが必要になり揃えました。

服装もお客さまの前に出る場合は気をつけないとならないなぁと休暇中にコーディネートを整理しなくてはと考えています。

 

オフィスワークで女性は特にですが、最近は男性もオフィスカジュアルという、何とも定義が曖昧な用語で服装を指定されます。

 

オフィスカジュアルで悩む方も多いのか指南しているサイトもかなりありますね。

読んでみると正解って無いみたいで、正直なところNGの露出の多いホットパンツに過度なミニスカート、肩やお腹が見えるような服装やジーパンやサンダルなどでなければOKではありつつ、人によっては場違い過ぎて微妙と思える場合も無くはない。

 

山に行くの?とか、これからダンスですか?とか、パーティでしょうか?と種々様々。

 

でも、NG項目にはハマってないのも事実。なんとも言えない(笑)

 

職場の風土や雰囲気もあるし、忖度を存分に発揮しないといけないような気がして悩ましい。逆になんでも良いという結論もあるかなぁ。

 

 

一回り以上年下の男性社員にランチ食べながら

「女性の服装ってたまにそれで良いのって時ありますよね!」

といわれて、男性諸君も同じように思ってるのねと感じたのもありました。

 

 

平成に入ってからのような気がするけれども、昔は無かったような様々なファッションが登場しています。

服装は自分の意志を表現する要素もあるので、それだけ世の中が多様化してきたとも言えますね。

 

しかし、逆に多様化しすぎて何が良いのか困る場合も多いし、歳を経るごとに元々好みのショップのテイストが変わってしまい路頭に迷うことも少なくなく...。゚(゚´ω`゚)゚。

 

 

ジョブズなどは、毎日同じ白シャツと黒いパンツの揃えでそこに無用な思考を働かせることをしないようにしました。

私もプライベートは兎も角として、毎日同じ場所に通うオフィスワークなどは出来れば洋服は極力考えたく無い派。ジョブズに共感の気持ちがあります。

 

とりあえず、1週間5日分の無難なワードローブを揃えてはいます。

でも、無難とは言えシャツひとつとっても形や色にに流行り廃りがあるのが悩ましい。

小まめにアップデート必要だし、テイストや色合いもミスマッチだと気になって仕方ないというhspの困った特性が頭を出すので、割と悩んでいます。

 

あと、セルフイメージを意識するので職場やプライベートでもポジションによって服装を変えないと気持ち悪いのもhspだからかも。

無駄に脳みそフル回転(笑)

 

 

実は、意外と着物もあまり考えなくても良い構造になっていることをご存知でしょうか?

 

西洋における洋服もかつてはそうだったのですが、身分社会だった頃のルールや、日本はハレとケでTPOを分ける風習があります。

そういった慣習を下敷きにしているから、こういった場合はこの着物を着てこの帯を締めるという選択が実に楽チン。(ワードローブが多くないからもあるけど)

また四季によって季節の花柄なども面倒という方もいるけれど、逆にこの時期はこれ!と頭に入れておけばこれも楽。

 

シチュエーション別のマトリックスがしっかりとできるので迷うことがほぼありません。

 

また、流行のスピードも遅いから毎年買い換える必要は全くないと言って過言ではありません。

素敵と思って譲ってもらった着物も、聞けば30年前に購入したなんて話もザラではなく。リサイクルショップに並んでいるものも同じです。

 

しかし、まったく流行が無いと言うのは嘘です。

袖の長さや色合いは多少の流行があるのは事実。地方によっても好みが違ったりしますね。

今の東京は淡めの色でビル街でも違和感のないトーンが好まれているようです。

私の好みとは違うけれど、スタイリッシュな感じはします。

でも、マトリックスに合ってさえすれば場違いや流行おくれと思われることもありません。

 

ワンポイントとしては、少し古臭く感じたら、帯締め帯揚げを新しいものや色合いにしてみるのも比較的安価にコーディネートするコツです。

 

本日の着物は鎌倉のリサイクルショップで手に入れた大島紬と、決まってこの時期に締めるカタクリの花の帯。

茶会ではNGですが、雨模様であったのとお稽古なので雨に強い普段仕様の大島紬を着ました。上から雨ゴートを羽織って準備万端。

 

https://www.instagram.com/p/BwvtDhplH_s/

季節外れで少し肌寒いけど、この時期は軽やか大島紬が似合う。山で淑やかに咲くカタクリの花を描いた塩瀬帯を合わせて。#大島紬 #塩瀬帯 #京友禅 #カタクリの花

 

着物シチュエーション別のマトリックスについては別で説明したいと思います。

 

では、また!

右脳と左脳と茶道の関係

脳の不思議に興味津々の窓辺亭主ミワコです。

 

 

右脳左脳診断テストというものを社長にやってみよと言われました。

まあ、コミュニケーションのため場を和ますツールとして、みんなそれぞれ違う特性があると言う趣旨でした。

 

↓こちらをご参照ください

【二枚貝】オフィシャルサイト

 

私の場合、指を組むときに左手親指が下になり、腕を組むときに左腕が下になります。インプットアウトプットが左脳優位。ささ脳と判定。

 

左脳は言語や論理的思考を司るそうで、右脳は感覚を司るらしいです。

 

 

ま、私の場合、懐疑的になりますわ。

でも、

 

 

 

違うテストをやったら半々使ってるよ。

ってことでモヤモヤが募る(笑)

 

それから脳のことが気になって仕方なくて、脳の本をボチボチ読んでいます(笑)

言ってしまえば、右脳と左脳がどんな働きをしているのか全貌は研究中だし、こんなに短絡的に判断は出来ないってこと。

 

右脳派・左脳派なんてない!その根拠、診断の意味と右脳・左脳の違いを解説 | NomarkLog

 

この記事がコンパクトにわかりやすく表現してくれてますが、左脳は言語野を司り、右脳は空間認知を司るという機能があって人間は両方使ってるよってこと。これが全ての機能ではないのでしょうけどね。

また、右脳は左半身、左脳は右半身を動かす神経と連動していることも事実のよう。

 

本当のことはまだまだ闇の中ってことかな。

 

 

そこで、ふと気になったのが茶道の表千家裏千家の動作ついて。

 

表千家は座るとき左手を上に置き、歩くとき左足を先に出す。裏千家は逆とのこと。

 

うーん確かに。

 

学校やテキストやテスト、ITも取り入れている裏千家は論理的にシステマチックな気がする。

対して表千家は点前も宗匠ごとに微妙に違ったり、テキストはとりあえずあるけれど稽古で見ることはなく、テストは無い。多分に感性を尊ぶ傾向にある。

この動作はこのような理由とか説明はほぼ無い。

 

動作として五感を鍛えてると思ったら、かなり興味深い(笑)

私には合ってるんだなぁ〜。きっと(笑)

 

道教室。表千家裏千家を選ぶのに悩んだら、腕を組んでみてはいかがでしょうか?

何も保証はしませんが。

 

 

うーん。マンダム

 

 

【HSS型HSPの日々】兼好法師もマルクス・アウレリウスも、はたまたフジファブリックも

睡眠について悩みがちな窓辺喫茶亭主ミワコです。

ランニングして身体を疲れさせてから寝たいのだけど、帰宅が遅いので頭ばかりチカチカして深い眠りが取れません。

 

昨日のブログは私の黒い部分を出したので引かれたかなとやや自嘲気味になりながら、良いヒトとして見えるように一生懸命に取り繕うHSP気質としては変化したなぁと驚いてもいます。

ただ、差別的発言と捉えられたら謝罪しか無いのですが。。。

 

 

そんな私ですが、再びHSPネタを書こうと思います。

 

昨日のフジファブリック新曲のお知らせに興奮したことから今回は始まります。

 

 

徒然草』をテーマに今暑いアーティストが楽曲を提供するというサントリーの企画!

 

サントリー天然水 GREEN TEA 特設サイト 徒然なるトリビュート

 

フジファブリックは189段を選択して『O.N.E』という曲を公開。

 

MVも異色だし、大阪弁の歌詞とテンポの良いメロディも元気になれる!

同僚を叱らなくてはならなくなった不快な気持ちも、残業しなくてはいけなくなった気持ちも上がるもんです!

 

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徒然草189段の現代語訳です。

なんだか、昔の人の言葉だとは思えない気がしますよね。

 

それ、あるあるー!

 

 

これから最近私の好きな100分で名著で放映していた、1800年以上も前に生きた哲人皇マルクス・アウレリウス『自省録』の

 

「一日一日をあたかもその日が最期の日であるように生きる」

 

という、つまりは自分が生きているのは終わった過去でもまだ来ない未来でもなくて今ここなんだ、今を大切に生きることが大切という意味で解説した岸見一郎さんの言葉に繋がりました。

 

名著86 「自省録」:100分 de 名著

 

私自身は30歳くらいまで、毎日過ぎた失敗に落ち込み、まだ来ていない明日や未来への不安でいっぱいに生きていました。

明日は悪いことが起きそうな気がして、眠る前に布団の中で無事に過ごせることを祈ったり、何か良くないことや不測の事態があるたびに今日は運が悪い日だと決めつけたり、悉くマイナス思考。

さらに、こんな不出来な自分に対してメソメソ悩まないことこそが悪いようにすら感じていました。

 

また、心が震えるほどラッキーなことに遭遇すると、次は足をすくわれて悪いことが起きると怯えたり・・・

 

しかし、ある時にきっかけを忘れてしまったのですが自分の思考回路が余りにもしんどいのではないかと気づきました。

済んだことや、まだ分からないことに悩んでも無駄だし、ましてや良いことの後に悪いことサイクルは

自分の頭の中で作り上げた妄想の世界ではないかと。

 

一旦、辞めてみよう。

辞めても悪いことが起きたらその時に考えようと決心しました。

 

そうしてみたら、別に良いことのあとに悪いことは起きない!

過去のことだって、クヨクヨ悩まないことに私を責める人もいない。

 

そんな結果が出ました(笑)

 

 

 

HSS型だからか、たまに自分は変えられるって信じている部分があったからできたのかもしれないです。

 

 

そして自分では想像もしていないような、とびきり良いことや、とびきり悪いことが起きることにも気づきました。

そんなことはその都度対処していくしかないし、それも苦には思わなくなりました。

また、HSPなので想定できるリスクは未然に回避できるようにという周到な準備は肌に身についているので欠かしません(笑)

 

もちろん何をしておいても、地の底まで悩むこともあるし、雲の上まで飛べるくらい嬉しいという感情になることもありました。

 

 

私は今にここにしか立ってない。

過去とか未来に生きているわけではない!

 

今を生きる!!

 

 

フジファブリックはボーカルの志村くんが2009年のクリスマスイブに急逝してしまい、3人は予測もしない岐路に立たされました。

 

だからこんな歌詞が書けるんだよね。

めっちゃ楽しい曲だけど、乗り越えた先の彼らのありのままの気持ちが詰まっています。

 

明日なにがおきるなんて

誰にも分からないんだから♪

 

こちらの記事も是非読んでください。

そして、曲を聴いてみんなの心が軽くなるといいなぁ。

 

 

それにしても、学校教育に古典文学などいらないということが公然と議題となる昨今、令和の万葉集に続いて徒然草にスポットが当たるようになったことを、文学部国文学科卒の私はとても嬉しいです。

自分の過去に悩むことはしなくて良いけれど、先人が残した書物にはやはり知恵が詰まっているので生きるヒントを参考にできる。

歴史教育とともに、文系学問の重要性は伝えていきたいですね。

【HSS型HSPの日々】絶対に太ってはいけないインナーチャイルド

 圧力釜をゲットして念願の玄米生活を開始したミワコです。

最近、健康オタク気味。今日はそれに繋がる内容です。

 

これから書く記事は、かなり嫌なヤツと思われるかもしれないですけど実際嫌なヤツ、私の話です

 

全然太っていない方が太っていると悩んでいたので、咄嗟にそんなことないですよと声をかけなくてはと思いました。まさに余計なおせっかいというものです。

なんで、そんな感情が急に湧いたのかものすごくモヤッとしました。

 

私自身もBMI値などでも太っているとは言えないのですが、太腿がたるんでいるうえに太くて膝下が短いことと顔が円くて大きいことにコンプレックスを持っています。

さすがに今さらどうにもならないってことは分かっているんですけど、膝下の成長がなんで止まったんだろうとか、帰宅の途中につらつら考えたりします。

 

そのため、私のなかではこれ以上太ることはさらに醜くなることで、あってはならないことです。

 

自然と食生活も野菜中心に気を付けるし、間食を常時することなどないし、なるべくカロリーの低い物を選びます。ランニングも始めたのもその一環です。

いまはファスティングに興味津々なのと、健康的な菜食主義者になれないかとかも考えています。

 

 

アラフォーになってからは代謝が悪くなってきて自然と太ることがとても怖い。

若さもなくなりこの年齢で太ってしまっては誰にも相手にされない、仕事をしていてもだらしないと思われそうで怖いとすら思っています。

 

でも・・・モデルでもなんでもない、見た目を売りにするような職業でもないのにこんなに敏感に生活しているのはちょっと異常に思えませんか?

逆に何かに固執しているんじゃないかと今さらながら不思議だと気づきました。

 

 

一方でこちらは見るからにかなり太っていて、何十万もかけてダイエットにチャレンジして、少し経つと中断を繰り返すヒト。

また、同じく見るからに太っていて、「いつかは痩せたい」と嘆きながらもお菓子を食べ続けて全くダイエットをする気もないヒト。

さらに、毎回その悩みと傷のなめ合いや宥めあいみたいなおしゃべりを繰り返すヒトにひどい嫌悪感を覚えて、その生産性のないバカみたいなおしゃべりをいい加減やめてくれないかと腹が立ちます。

悩んでいるなら、なんでそこまで太ったのよ、痩せたいなら真剣に対策を立てて取り組んでよとむかむか激しく怒りすら出てくるときもある。

傍から見て、ただの怠惰な人にしか見えないのです。 

 

健康好きなので見る、健康番組でダイエット企画がよくありますが、太ったタレントがちょっと痩せても、「どうせこのあと続けないんでしょ。リバウンドするんでしょ」とか意地悪な考えになります。

 

あー、嫌なヤツ。不快に思う人がいたらごめんなさい。太った理由も人それぞれってのも頭の中では理解していますし、不可抗力な理由の方もいるのは知っています。

 

はい、嫌なヤツであることはぬぐえません。。。。

 

 

それでも『太る』ということに固執する自分。なんでなんだろうと、自分に問いかけます。

 

 

ひとつ思い出したのは、元夫に

 

「太ったら離婚する」

 

と言われたこと。

 

彼の母親が肥満で体調が芳しくないための発言だったのだと思いますが、そんなことで離婚という言葉を使う無神経さに哀しくなりました。

哀しい気持ちになりつつ言い返すこともせず、私はうなずいていたような記憶があります。

全く横暴ではなくて温厚な性格のヒトでしたが、何故だか言い返せなかった。

 

 

何故だろう・・・・

 

 

 

もうひとつ湧いてきた泣きたい気持ち。

悲壮な顔をした少女がいます。それは小学生のころの私。

母親に妹と比較して嗤いながらたびたび言われていた言葉。

 

 

「ミワちゃんはぽっちゃりしてるからね~」

 

 

ああ、私は太っているんだあ・・・プラス飛躍して醜いんだと刻み付けられたました。

 

ぽっちゃり・・・

 

母親も娘を傷つけたいと思って言っているわけでもないことは、子供ながらに理解できてはいます。醜いってのも思ってないでしょう。

でも、顔が小さくて痩せてすらっとしている妹に対して否定できる素材も自分自身になくて絶望的になりました。

太っていると母親や妹やそのほかの人に嘲笑される恐怖感。

 

長じてから、それを裏付けるように成人式の私の写真は顔が円くてぽっちゃりオカメさんのようで全然素敵に思えなかった(爆)

 

今だったら、当時の自分に対して違う言葉をかけられたと思います。

実際のところ幼少期の写真をみて、スタイルは子役モデルとは比較にならないけれども肥満児だったことはないです。成人式だって太り過ぎでもなかったから(笑)

 

HSPの自己肯定感を低くする要素たっぷりの出来事です。

書きながらも哀しい気持ちが蘇ってきます。

 

元夫に対しても「離婚する」という衝撃発言に怒りを出し切れなかった理由です。

私のとっても太ることは「悪」だから憤慨すべきことではないんです。

 

 

私の場合は、HSS型なので対策を打って少しでも「太る」から回避しなくてはいけないという行動に出ました。

 

 

絶対に太ってはいけないのですから!

 

 

健康オタク、運動、エステ、ファッションetc・・・

日々の見た目に関する工夫はここから来てたんだと愕然。

 

太ってない人が悩んでいる姿は否定しなければいけないという思い。

 

努力しない人への嫌悪感の正体。

 

ひえええええ

 

HSS型HSPの回りくどい潜在意識に沈んだ思考回路。

自分自身の中に謎ときがいっぱいだなあ。改めて面白いと感じました。

 

自分に対しての太ってはいけない活動はたぶんこれからも続くと思うんですが、ま、それはそれでいいかな(笑)

 

フジファブリック15周年 FIVERMANツアー

今年は毎日15周年記念気分の窓辺喫茶亭主ミワコです。

 

コトはFABch(フジファブリックファンクラブサイト)でのFIVERMANツアーライブ先行発売に始まります。

今回は気合を入れて、1stの横浜公演をゲットしようと申し込み。アルバム先行ではセミファイナルの東京公演を申し込んで万全の計画です!

 

しかし、なんと横浜公演落ちる...。

 

同時の申し込みは反則なのか?よくわからないんですが落ち込みましたよ。(文句じゃありませぬ)

次の先行で買えば良かったんですけど、諸事情あったのと、少し不貞腐れて(再び文句じゃありませぬ)見送っていたらソールドアウト。

だんだん惜しくなってどこかの公演に行くべきだとメラメラと謎の闘争本能が湧きまして、検討した結果、一番遠い福岡公演に行くことに決定!

友人がいるのと行きたい箇所がいくつかあり、チケットとホテル航空券を取って旅立ちました。

 

ただでさえライブは緊張するんですよ。

知らないライブハウスは見つけられるかとか、ロッカーは借りられるかなとか、ワンドリンク何飲もうとか、グッズ買えるかな〜とか。

背が低いので、一番はステージのメンバー見えるかなですが(笑)

めちゃくちゃ不安と緊張に包まれて参加するんですわ。

 

ましてや、ほぼ知らぬ土地。大冒険でした。

 

危うく違うライブハウスの順番待ちに並ぶところでしたが、途中で気づいて雨のそぼ降る中会場へ。

(最近、フジファブリックのライブって雨が多い印象は気のせいか。でも、雨の日って心が落ち着くんで嫌ではないんですよ)

 

結果的には行って大正解。1000人ほど収容のハコはメンバーが近くてアットホームな雰囲気だったし、まだ3回目のトークも危うい感じがなんとも言えずたまらない。

アコギの音が小さいというトラブルがあるのも一興で。

 

何よりななめ前にいたオジサマの謎ダンスが途中から面白くなってしまった福岡の夜。

 

星野源のツアーファイナルにも心揺れず来た真のファンが集結した福岡の夜。

 

終わった後はフワフワの博多うどんと出会って感激した福岡の夜。

 

ぼかぁ幸せだあなぁの福岡の夜でした❤️

 

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なんと正真正銘の15周年記念日の今日は東京公演。

ライブ中に気づいたけど、15年前に一緒に働いてた仲間と昼間に会ってたのは不思議なことだなぁと思って自分の15年前を思い出してもいました。

若かったなぁ〜って(笑)お互いアラフォーになるわけで。

フジファブリックもアラフォーになるわけさ。

 

 

4人の衣装が今日は違ってたのは撮影のせいかな?

白い、電光石火の衣装でしょうか?白が似合うよ格好いい!

 

総くんのトークもテンション高くキレッキレでしたよー!!

お楽しみの着地しないゆるトークもちゃんとあったので安心(笑)

これがないと最早ライブに参加した気にならない(笑)

 

音が小さいハプニングは今日もありで(笑)

 

しかし、さすがセミファイナルだけあってライブの仕上がりが素晴らしくて酔いしれました。

 

ギタリスト山内総一郎のギターはいつも痺れるし、ボーカリストとしてもどんどん魅力を増してます。

 

 

ホントに志村くんと3人の軌跡を想ってジワジワくる瞬間あり、撮影協力のため(笑)ファンもガンガン盛り上げようという熱気が満ち溢れておりました。

 

志村正彦は今も一緒にいるんだなぁ〜。志村くんの曲も織り交ぜて大盛り上がり。

 

ダイちゃんの煽りも最高!ダンス指導の加藤先生は、大喜利もやってくれて本日も大活躍。

 

こんなとこばっかり取り上げてなんですが、もちろん、キーボードとベースのパフォーマンスも最高なのは当たり前で、豊夢さんのドラマも素敵。

このメンバーだからこそのサウンドを身体中に受ける快感でライブって病みつきになっちゃうんですよね。

 

総くんの要所要所の振り付けも可愛くて見ものだし、ラップもノリノリで声を出したよ〜

 

FEVERMANダンスはダイちゃんと同じく得意じゃないけどファンの一体感が楽しすぎました。

Feverman

Feverman

 

 

なんだろうか〜どんどんライブに参加する度にフジファブリックってパワーアップしてるんじゃないか思うのです。

 

そして、本当に15年続けてくれてありがとうという感謝の気持ちでいっぱいなんです。

 

私個人はフジファブリックの音楽に再会してから封印していた音楽がまた聴けるようになって、挫けそうになった時に立ち上がる勇気をもらって支えてもらえて社会とも繋がっていられている。笑ってここにいることができる。

 

10年前にフロントマン志村くんがなくなっての失意のドン底から、総くんがフロントマンになる決心をし、3人は自分たちで希望を見つけ、再開してたくさんの音楽を紡いでくれたことがどれだけのファンの心を支えてくれてるのだろうかと想像します。

 

あの頃、総くんがくるりのサポートでTHEギタリストとしてギターを弾いていた時を思い出して、またじんわり。

 

メジャーデビュー曲である『桜の季節』も心から嬉しかった。

ちょうど桜の舞い散るこのときに。

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総くんは感謝感激雨アラレと言ってたけど、こっちの台詞でもあるよぉ〜と聞いておりました。

 

新曲もoverwriteも配信になったし!これからも突っ走ってね。

ついて行きます!よろしくお願いします!

 

オーバーライト

オーバーライト

 

 

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オルテガ『大衆の反逆』とあの件

4月になってスギ花粉がおさまりかけて、安堵している窓辺亭主ミワコです。

 

かなり前になってしまったんですけど、NHK Eテレの100分で名著で先月放映した『大衆の反逆』を見て、色々と思索に耽ることになったので書いてみようと思います。

 

オルテガ『大衆の反逆』 2019年2月 (100分 de 名著)

オルテガ『大衆の反逆』 2019年2月 (100分 de 名著)

 

中島岳志さんの解説本を読ませてもらいました。

オルテガの思想を現代における中島さんの解釈で表現されています。非常に心にガツンとくるものがありました。是非読んでほしいと思います。

原典はまだ読んでいないことを始めに断っておきます。

 

まず、タイトルの『大衆』とは何なのか。

 

自分が依って立つ場所がなく、誰が誰なのか区別もつかないような、個性を失って群衆化したような大量の人たち。それをオルデガは「大衆」と呼びました。

 

一般的に同義語とされる「庶民」とは別のカテゴリで考えています。

 

そして、その「大衆」はたやすく熱狂に流される危険があるというのが、「大衆の反逆」の問題設定なのです。

 

オルデガの時代は急激に人口が増えて、都市部にたくさんの人々が仕事を求めて流入し、これまであった倫理観などが通用しなくなりました。工業化も進み、規格通りに仕事をしなさいと指示される労働者が出現したのです。

 

またその人々のことを、疑問を持たないでみんなと同じを尊ぶ「平均人」とも表現されています。

 

これって日本社会だけじゃ無いんだという事がまず私の驚きでありました。

私の認識する日本社会は「個性を出せ」と言いつつ、少し違う人間は排除する、まさしく「平均人」を尊ぶ社会です。

 

親の転勤による引越し先で方言がちがう、早生まれのため幼い頃は身体も小さい、みんなと同じアイドルやドラマを知らないとか、ほんの些細な不一致で違う人だといじめにもあったので、私は必死にビクビクしながら「平均人」に擬態する生活を送っていました。

 

「平均人」という言葉は知らないものの、みんなの中にうまく紛れ込むことで己を守るがため、彼らを外側から観察するくせが自然と身につき敏感になっていたからか、より切実に共感しているのかも。

 

 

現時の特徴は、凡庸な精神が、自己の凡庸であることを承知のうえで、大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、これをあらゆる場所に押し付けようとする点にある。

 

凡庸であることが正義。多数派が正義。

 

先日、電気グルーヴピエール瀧被告が逮捕されてテレビを賑わせている件を遠巻きに眺めていて、『大衆の反逆』に書かれている光景を見ているように感じました。

 

まずは電気グルーヴの音楽が市場から消え去ってしまったことに始まります。

音楽界に衝撃を与えた出来事です。 容疑者の関わった音楽は悪と認定されたわけです。

 

そして相方、石野卓球さんに対して公共のメディアや出演するコメンテーターは謝罪をしろとか、態度が悪いとか、アイツもやってるんじゃ無いかとか言い出したのです。

 

石野卓球さんは全く凡庸な方ではありませんから、彼なりのアプローチがメディアに火を点けました。

 

私は彼がおかしなことを発言しているとは思えません。とても真っ当なことを卓球流に表現している。

 

 

どうやら現代の日本の社会では仲間が罪を犯したら発言権は奪われて、一緒に償いの意味も込めて謝罪とか自粛することが社会一般通念であり、それを掲げることが凡庸なるものの権利であるから、押し付けて構わないという構造になっているようです。

それに従わない者に対しては徹底的に集団で公共のメディアを使って叩いて良いようです。

 

 

このメディアとか、コメンテーターを現すような者たちことについて『大衆の反逆』にはこうあります。

 

人間の生のもっとも矛盾した形態は《慢心した坊ちゃん》という形態である。《慢心した坊ちゃん》はとてつもなく異常なものだということがはっきりわかると思う。なぜなら、かれは自分のしたい放題のことをするために生まれ落ちた人間だからだ。

 

自分のやることに疑問を持たず、正しく分別があると思い込んでいる人間というのも「大衆」の特徴だといっています。

 

《慢心した坊ちゃん》たちの発言に視聴者のどれくらいが共感するかは分からないけれど、共感した人たちも《慢心した坊ちゃん》になると考えるとゾッとする話です。

 

まさに、この電気グルーヴの件に関しては、ピエール瀧被告の犯罪は悪いことではあります。

しかし、それを取り巻く全ても悪だという理論を《慢心した坊ちゃん》たちは公然と実行してしまっています。

 

 

さらにオルデガはこんなことも述べています。

 

専門家こそが大衆の原型

 

ここでの専門家は大学の研究者のことだそうですが、専門分野しか知らない人と捉えると、現代の芸能界しか知らないコメンテーターを名乗る人たちと置き換えても合致します。

 

幅広い教養が失われて、こういう偏った考えの人たちが発言権をもつ日本社会に疑問を持たざるを得ないです。

 

オルデガの『大衆の反逆』が生まれた時代はまさに共産主義ファシズムが吹き荒れる前夜。

世の中がキナ臭く、危険な方向に導かれることを危惧して著されたものなのでしょう。

 

いま、平和に見えるこの日本社会はどういった位置付けでオルデガは思うでしょうか。

 

 

拳ではなく尻を

 

このフレーズに私は涙が出そうになりました。

 

拳は暴力を象徴し、尻は座って対話することを意味しています。オルデガは暴力ではなくて、対話を訴えました。

 

しかし、それも虚しく世の中はファシズムが台頭し第二次世界大戦に突入してしまいました。

 

大衆ではなく、もっと世の中を広い視点で見ることのできる人々がたくさんいたら、さまざまな悲劇は起きなかったかもしれません。

 

 

さて、芸能界の出来事と世界の問題を一緒にするなと思われるでしょうか。

 

でも、容疑者と一緒に活動してたら罪人ということを当たり前と考える社会、メディアを前にして私たちはこれが当たり前と感じて良いのか。

自分に置き換えるととんでもなく恐怖に私は感じました。

 

仲間とは言え、全てを知っているわけでは無い他者が罪を犯した場合、いつ何時、自分も罪人扱いされるか分からないのです。

 

魔女狩りにも似た、人権損害とも捉えられることを社会は公然と正義の如く言いはるのですから。

 

さらに、言葉の拳を公然とぶつけられて普通の人ならどれだけの衝撃を与えられることか。

 

最近は普通のように思われてますけど、アイドルが並んで謝罪するあの儀式だって不思議に思えます。

 

 

実は、『大衆の反逆』の世界は現代日本社会においてとても身近にあるのではないか、そんな風に感じます。

 

 

私は大衆ではなく、オルデガの表現する貴族(精神的貴族、人格的貴族。他者と共存しながら社会的役割を果たそうとする人)になれるように生きたいと思いました。

 

『令和』という元号に相応しい社会になるように、しっかりと世の中を見据えて生活していきたいですね。

 

 

それにしても、こんなテレビみんな見たいのかな。

だから若者のテレビ離れが進んでるんだろうけど。

利休忌に思う

歴史好きな窓辺亭主ミワコです。

 

新しい元号『令和』が発表されましたね。

国書である万葉集からとった初めての元号だそうです。

 

「于時初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香」

 

しかし、日本の文字が無かった時代。記述は漢籍由来だから、どっちがどっちとこだわる必要もないのかなとか思ってしまいますね。

 

美しい言葉であることは事実ですし、万葉集を漢語で綴った時代の人々のように、日本がこれから嫋やかに世界と渡り合う素晴らしい国家になることを祈り、また自分自身も行動したいと思います。

 

 

 

さて、今回は利休さんのお話。

 

千利休豊臣秀吉の命令で切腹させられたのは天正19年2月28日のこと。表千家では毎年新暦の3月27日を祥月命日として、利休忌を行います。

 

私の通うお教室では、少し遅れますが次回のお稽古で行います。

利休の画像と利休の愛した菜の花が設えてある床の間に、天目茶碗に点てた茶を供えて偲びます。

 

 

利休が何故、秀吉に自害を命ぜられたのか色々な説があります。

 

ひとつの理由はあの時代の常識とかけ離れた世界観と美意識を持っていたことなのではと私は思います。


きらびやかな原色の色彩感覚が古代から続いた日本において、黒を美しいとする感性は全く異質です。

 

小説やドラマでは豊臣秀吉の金の茶室を筆頭に、彼が田舎者で派手好きで下品のような印象を与えようとするのですが、この時代の美術品全般を見ると、権力者として一般的な感覚です。

 

何故かというと照明が現代のように発達していないので、客人を自分の屋敷に招いて相手に衝撃を与えるためには鮮やかな色彩で室内を彩ることが必須です。高価な洗練された色を出すには、高価な画材が必要となるため、権力者しかできないことです。

鮮やかであることこそ美しく高貴で素晴らしいと考えられていたのも当然ですよね。

 

そのため、侘び茶を村田珠光に始まりさらに大成させた利休という人物が異端児であり最先端モードの担い手だったのではないかと考えられるわけです。


黒の楽茶碗、薄暗い小さな茶室を最上とし、一方では綿や井戸茶碗など海外からの輸入品であるものの地味な雑器をさりげなく道具に取り入れる。竹を切っただけの粗末な器を花器としてみる。

それまで客をもてなす料理は食べきれないほど豪華だったものを、黒い四つ碗におさめられた懐石料理という粗末なものへと。

 

趣味として嗜むだけでなく、ひとつの洗練された文化として、商品として、ムーブメントとして利休は黒く暗く、質素な世界をプロデュースしたのです。


禅僧が中心となった東山文化がベースに有るとは言え、当時としては一点に極め尽くした手腕も含め尖ったアーティストだったのではないでしょうか。


体躯も大柄であったと言われる利休は、ドラマに有るような物静かな老人とは全く違うアバンギャルドな香りを漂わせた人間像ではないかと私は想像します。

『わびさび』のような不足の美は、現代では日本古来の文化の象徴と言われますが私はなんだか違うように感じます。当時の前衛芸術的な思想だったのだろうと。

 

 

織田信長はそんな利休の独自の解釈、視野の広さや本質を理解して重用したのではないか。どこか共感できるところがあったのだと思います。

 

逆に、当時としては一般的な感覚だった豊臣秀吉は事実側近として知見の広い利休を愛し重用したものの、自分の家臣団が利休を重用することを到底理解できないことに気づいたのではないか。家臣団のまとまりに綻びが生じかねないと恐れたのではないか。

 

自害に追い込むまでは色々な出来事があったのでしょうが、そこに至るまでの経緯はこんなところにあるのではと推察するのです。

 

 

話は変わり、利休は菜の花を愛したと伝わっています。床の間に供えるのも菜の花。簡素な茶室に黄色の優しい光が点るようです。

菜の花というと、朧月夜の歌を思いだします。

 

 菜の花畑に入り日薄れ~

 

日本の山里の牧歌的な風景という印象が強いですよね。そんな素朴な花を愛した利休のわびさびの心と理解している人が多いようです。

当時の菜の花とはどういうものなのかを考えてみましょう。


利休の生まれ育った堺は貿易の盛んな都市でした。中国からさまざまな海外の物品が取引され触れることも日常であったでしょう。
その中には『菜種』があり、戦国時代には菜種から抽出した油がそれまでの荏胡麻油よりも優れた燈明油だったため急速に普及していくことになりました。堺は菜種の産地としても栄えたのです。


現代とは感覚が違いますが、油を扱うものは大きな富が生まれました。荏胡麻油を扱った大山崎商人の権益を解体しようと、織田信長楽市楽座の政策で試みたりもしています。

 

利休が生きたのは、荏胡麻油から菜種油へ取って替わった過渡期で採取の中心地であったのが大阪や堺でした。


そんなことを考えると菜の花の意味も変わってみえます。


牧歌的ではなく、菜の花畑の光景は新時代の幕開けと言えるのかもしれません。

油だけでなく、足利氏の政権が終わり織田信長から豊臣秀吉の時代を新しい発想で駆け抜けた利休。彼の人生とリンクしてくるように思いました。

 

 

利休さんについての伝説はミステリアスで想像がつきません。

そんなことも千家の茶が続いてきた理由かも?

 

では、また!