窓辺の喫茶

表千家茶道、茶人を目指す。アート、音楽好き。HSS型HPSのため臆病なくせに好奇心旺盛。日常に思ったことの徒然を書く。

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利休忌に思う

歴史好きな窓辺亭主ミワコです。

 

新しい元号『令和』が発表されましたね。

国書である万葉集からとった初めての元号だそうです。

 

「于時初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香」

 

しかし、日本の文字が無かった時代。記述は漢籍由来だから、どっちがどっちとこだわる必要もないのかなとか思ってしまいますね。

 

美しい言葉であることは事実ですし、万葉集を漢語で綴った時代の人々のように、日本がこれから嫋やかに世界と渡り合う素晴らしい国家になることを祈り、また自分自身も行動したいと思います。

 

 

 

さて、今回は利休さんのお話。

 

千利休豊臣秀吉の命令で切腹させられたのは天正19年2月28日のこと。表千家では毎年新暦の3月27日を祥月命日として、利休忌を行います。

 

私の通うお教室では、少し遅れますが次回のお稽古で行います。

利休の画像と利休の愛した菜の花が設えてある床の間に、天目茶碗に点てた茶を供えて偲びます。

 

 

利休が何故、秀吉に自害を命ぜられたのか色々な説があります。

 

ひとつの理由はあの時代の常識とかけ離れた世界観と美意識を持っていたことなのではと私は思います。


きらびやかな原色の色彩感覚が古代から続いた日本において、黒を美しいとする感性は全く異質です。

 

小説やドラマでは豊臣秀吉の金の茶室を筆頭に、彼が田舎者で派手好きで下品のような印象を与えようとするのですが、この時代の美術品全般を見ると、権力者として一般的な感覚です。

 

何故かというと照明が現代のように発達していないので、客人を自分の屋敷に招いて相手に衝撃を与えるためには鮮やかな色彩で室内を彩ることが必須です。高価な洗練された色を出すには、高価な画材が必要となるため、権力者しかできないことです。

鮮やかであることこそ美しく高貴で素晴らしいと考えられていたのも当然ですよね。

 

そのため、侘び茶を村田珠光に始まりさらに大成させた利休という人物が異端児であり最先端モードの担い手だったのではないかと考えられるわけです。


黒の楽茶碗、薄暗い小さな茶室を最上とし、一方では綿や井戸茶碗など海外からの輸入品であるものの地味な雑器をさりげなく道具に取り入れる。竹を切っただけの粗末な器を花器としてみる。

それまで客をもてなす料理は食べきれないほど豪華だったものを、黒い四つ碗におさめられた懐石料理という粗末なものへと。

 

趣味として嗜むだけでなく、ひとつの洗練された文化として、商品として、ムーブメントとして利休は黒く暗く、質素な世界をプロデュースしたのです。


禅僧が中心となった東山文化がベースに有るとは言え、当時としては一点に極め尽くした手腕も含め尖ったアーティストだったのではないでしょうか。


体躯も大柄であったと言われる利休は、ドラマに有るような物静かな老人とは全く違うアバンギャルドな香りを漂わせた人間像ではないかと私は想像します。

『わびさび』のような不足の美は、現代では日本古来の文化の象徴と言われますが私はなんだか違うように感じます。当時の前衛芸術的な思想だったのだろうと。

 

 

織田信長はそんな利休の独自の解釈、視野の広さや本質を理解して重用したのではないか。どこか共感できるところがあったのだと思います。

 

逆に、当時としては一般的な感覚だった豊臣秀吉は事実側近として知見の広い利休を愛し重用したものの、自分の家臣団が利休を重用することを到底理解できないことに気づいたのではないか。家臣団のまとまりに綻びが生じかねないと恐れたのではないか。

 

自害に追い込むまでは色々な出来事があったのでしょうが、そこに至るまでの経緯はこんなところにあるのではと推察するのです。

 

 

話は変わり、利休は菜の花を愛したと伝わっています。床の間に供えるのも菜の花。簡素な茶室に黄色の優しい光が点るようです。

菜の花というと、朧月夜の歌を思いだします。

 

 菜の花畑に入り日薄れ~

 

日本の山里の牧歌的な風景という印象が強いですよね。そんな素朴な花を愛した利休のわびさびの心と理解している人が多いようです。

当時の菜の花とはどういうものなのかを考えてみましょう。


利休の生まれ育った堺は貿易の盛んな都市でした。中国からさまざまな海外の物品が取引され触れることも日常であったでしょう。
その中には『菜種』があり、戦国時代には菜種から抽出した油がそれまでの荏胡麻油よりも優れた燈明油だったため急速に普及していくことになりました。堺は菜種の産地としても栄えたのです。


現代とは感覚が違いますが、油を扱うものは大きな富が生まれました。荏胡麻油を扱った大山崎商人の権益を解体しようと、織田信長楽市楽座の政策で試みたりもしています。

 

利休が生きたのは、荏胡麻油から菜種油へ取って替わった過渡期で採取の中心地であったのが大阪や堺でした。


そんなことを考えると菜の花の意味も変わってみえます。


牧歌的ではなく、菜の花畑の光景は新時代の幕開けと言えるのかもしれません。

油だけでなく、足利氏の政権が終わり織田信長から豊臣秀吉の時代を新しい発想で駆け抜けた利休。彼の人生とリンクしてくるように思いました。

 

 

利休さんについての伝説はミステリアスで想像がつきません。

そんなことも千家の茶が続いてきた理由かも?

 

では、また!