窓辺の喫茶

表千家茶道、茶人を目指す。アート、音楽好き。HSS型HPSのため臆病なくせに好奇心旺盛。日常に思ったことの徒然を書く。

MENU

オルテガ『大衆の反逆』とあの件

4月になってスギ花粉がおさまりかけて、安堵している窓辺亭主ミワコです。

 

かなり前になってしまったんですけど、NHK Eテレの100分で名著で先月放映した『大衆の反逆』を見て、色々と思索に耽ることになったので書いてみようと思います。

 

オルテガ『大衆の反逆』 2019年2月 (100分 de 名著)

オルテガ『大衆の反逆』 2019年2月 (100分 de 名著)

 

中島岳志さんの解説本を読ませてもらいました。

オルテガの思想を現代における中島さんの解釈で表現されています。非常に心にガツンとくるものがありました。是非読んでほしいと思います。

原典はまだ読んでいないことを始めに断っておきます。

 

まず、タイトルの『大衆』とは何なのか。

 

自分が依って立つ場所がなく、誰が誰なのか区別もつかないような、個性を失って群衆化したような大量の人たち。それをオルデガは「大衆」と呼びました。

 

一般的に同義語とされる「庶民」とは別のカテゴリで考えています。

 

そして、その「大衆」はたやすく熱狂に流される危険があるというのが、「大衆の反逆」の問題設定なのです。

 

オルデガの時代は急激に人口が増えて、都市部にたくさんの人々が仕事を求めて流入し、これまであった倫理観などが通用しなくなりました。工業化も進み、規格通りに仕事をしなさいと指示される労働者が出現したのです。

 

またその人々のことを、疑問を持たないでみんなと同じを尊ぶ「平均人」とも表現されています。

 

これって日本社会だけじゃ無いんだという事がまず私の驚きでありました。

私の認識する日本社会は「個性を出せ」と言いつつ、少し違う人間は排除する、まさしく「平均人」を尊ぶ社会です。

 

親の転勤による引越し先で方言がちがう、早生まれのため幼い頃は身体も小さい、みんなと同じアイドルやドラマを知らないとか、ほんの些細な不一致で違う人だといじめにもあったので、私は必死にビクビクしながら「平均人」に擬態する生活を送っていました。

 

「平均人」という言葉は知らないものの、みんなの中にうまく紛れ込むことで己を守るがため、彼らを外側から観察するくせが自然と身につき敏感になっていたからか、より切実に共感しているのかも。

 

 

現時の特徴は、凡庸な精神が、自己の凡庸であることを承知のうえで、大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、これをあらゆる場所に押し付けようとする点にある。

 

凡庸であることが正義。多数派が正義。

 

先日、電気グルーヴピエール瀧被告が逮捕されてテレビを賑わせている件を遠巻きに眺めていて、『大衆の反逆』に書かれている光景を見ているように感じました。

 

まずは電気グルーヴの音楽が市場から消え去ってしまったことに始まります。

音楽界に衝撃を与えた出来事です。 容疑者の関わった音楽は悪と認定されたわけです。

 

そして相方、石野卓球さんに対して公共のメディアや出演するコメンテーターは謝罪をしろとか、態度が悪いとか、アイツもやってるんじゃ無いかとか言い出したのです。

 

石野卓球さんは全く凡庸な方ではありませんから、彼なりのアプローチがメディアに火を点けました。

 

私は彼がおかしなことを発言しているとは思えません。とても真っ当なことを卓球流に表現している。

 

 

どうやら現代の日本の社会では仲間が罪を犯したら発言権は奪われて、一緒に償いの意味も込めて謝罪とか自粛することが社会一般通念であり、それを掲げることが凡庸なるものの権利であるから、押し付けて構わないという構造になっているようです。

それに従わない者に対しては徹底的に集団で公共のメディアを使って叩いて良いようです。

 

 

このメディアとか、コメンテーターを現すような者たちことについて『大衆の反逆』にはこうあります。

 

人間の生のもっとも矛盾した形態は《慢心した坊ちゃん》という形態である。《慢心した坊ちゃん》はとてつもなく異常なものだということがはっきりわかると思う。なぜなら、かれは自分のしたい放題のことをするために生まれ落ちた人間だからだ。

 

自分のやることに疑問を持たず、正しく分別があると思い込んでいる人間というのも「大衆」の特徴だといっています。

 

《慢心した坊ちゃん》たちの発言に視聴者のどれくらいが共感するかは分からないけれど、共感した人たちも《慢心した坊ちゃん》になると考えるとゾッとする話です。

 

まさに、この電気グルーヴの件に関しては、ピエール瀧被告の犯罪は悪いことではあります。

しかし、それを取り巻く全ても悪だという理論を《慢心した坊ちゃん》たちは公然と実行してしまっています。

 

 

さらにオルデガはこんなことも述べています。

 

専門家こそが大衆の原型

 

ここでの専門家は大学の研究者のことだそうですが、専門分野しか知らない人と捉えると、現代の芸能界しか知らないコメンテーターを名乗る人たちと置き換えても合致します。

 

幅広い教養が失われて、こういう偏った考えの人たちが発言権をもつ日本社会に疑問を持たざるを得ないです。

 

オルデガの『大衆の反逆』が生まれた時代はまさに共産主義ファシズムが吹き荒れる前夜。

世の中がキナ臭く、危険な方向に導かれることを危惧して著されたものなのでしょう。

 

いま、平和に見えるこの日本社会はどういった位置付けでオルデガは思うでしょうか。

 

 

拳ではなく尻を

 

このフレーズに私は涙が出そうになりました。

 

拳は暴力を象徴し、尻は座って対話することを意味しています。オルデガは暴力ではなくて、対話を訴えました。

 

しかし、それも虚しく世の中はファシズムが台頭し第二次世界大戦に突入してしまいました。

 

大衆ではなく、もっと世の中を広い視点で見ることのできる人々がたくさんいたら、さまざまな悲劇は起きなかったかもしれません。

 

 

さて、芸能界の出来事と世界の問題を一緒にするなと思われるでしょうか。

 

でも、容疑者と一緒に活動してたら罪人ということを当たり前と考える社会、メディアを前にして私たちはこれが当たり前と感じて良いのか。

自分に置き換えるととんでもなく恐怖に私は感じました。

 

仲間とは言え、全てを知っているわけでは無い他者が罪を犯した場合、いつ何時、自分も罪人扱いされるか分からないのです。

 

魔女狩りにも似た、人権損害とも捉えられることを社会は公然と正義の如く言いはるのですから。

 

さらに、言葉の拳を公然とぶつけられて普通の人ならどれだけの衝撃を与えられることか。

 

最近は普通のように思われてますけど、アイドルが並んで謝罪するあの儀式だって不思議に思えます。

 

 

実は、『大衆の反逆』の世界は現代日本社会においてとても身近にあるのではないか、そんな風に感じます。

 

 

私は大衆ではなく、オルデガの表現する貴族(精神的貴族、人格的貴族。他者と共存しながら社会的役割を果たそうとする人)になれるように生きたいと思いました。

 

『令和』という元号に相応しい社会になるように、しっかりと世の中を見据えて生活していきたいですね。

 

 

それにしても、こんなテレビみんな見たいのかな。

だから若者のテレビ離れが進んでるんだろうけど。