窓辺の喫茶

空想喫茶店でおもいついたまま好きなことをぼやきます。

『おもてなし』とは何なのだろうか

窓辺の喫茶店主ミワコです。

 

最近、「おもてなし」という単語を日本独自の特色であるように聞くが、なんとなく違和感があるのだ。

書こうと思ったのも、何故だかそんな会話があったり、立て続けに深く考える事象が続いたから。

 

『実用日本語辞典』によると

おもてなし
別表記:お持て成し

客に対する心のこもった接遇、歓待、サービスなどを意味する表現。「もてなし」に丁寧の「お」をつけた言い方。もっぱら「お」を付した「おもてなし」の表現で用いられる。もてなす事そのものが丁寧さに満ちた行いである。

特に「お・も・て・な・し」もしくは「お、も、て、な、し」のように表記されている場合、これは2013年9月にIOC国際オリンピック委員会)総会でプレゼンテーションを行った滝川クリステルの発言を指している場合が多い。滝川クリステルは東京の五輪招致アンバサダーとして壇上に上り、仏語のスピーチの中で日本の「おもてなし」を紹介した。その際に一音ずつ離して「お、も、て、な、し」のように発音している。

お・も・て・な・し」は、「じぇじぇじぇ」「今でしょ」「倍返し」と共に、2013年ユーキャン新語・流行語大賞 に選ばれている。

 

 

オリンピック招致でのプレゼンテーションで一躍キャッチーな言葉として多く使われるようになった。

心のこもったサービスを日本人は海外の皆様にも提供しますよ~というアピール。

確かに、一流の旅館やホテルではそういったサービスを提供していると思うし、四国のお遍路などお接待といって旅人を無償でもてなす文化もある。

販売などの接客業でも、マニュアルとしてお客様をもてなす行為が決められていたりする。自然にお客様にたいして、丁寧に接する文化が海外に比べたらあるのかもしれない。

 

海外といっても様々な文化があるからひとつに出来ないと思うので、比較は割愛する。

 

私の違和感を持つところは、このおもてなしが一方しか向いてないことだ。

おもてなしを提供するものとされるものという考え方がいまの日本では当たり前となっていないだろうか。

もっと平たく言うと、金を出される側と金を出す側の二極に分かれて、金を出す側が偉いという構造を示しているように見えてならない。

 

突然だが、ここで茶の湯の話に遷る。

千利休茶の湯を大成したことで有名であるが、とんでもない意識革命をしたのではないかと私は思っている。

この当時は現代よりも階級社会であり、身分の上下や区別があったため、ちいさな茶室で同じ高さの席に膝を寄せ合うというのは異常な感覚だった。それを世の知識階級や権力階級たちのサークル内で面白いと思わせた。さらに現代まで続くような仕掛けを施した。

 

茶を呈すという行為。はじめは、客をもてなすための行為であった。

 

千利休は『茶事』という、亭主が客をもてなす行為のなかに、相互の心の交流をエッセンスとして注入した。

客は路地から、待合いのしつらいから亭主がもてなすための日々の苦労や準備を感じる。茶室の掛け軸や道具で、本日の茶事のテーマを読み取る。

そして、亭主に招いてくれたことに対して礼を尽くす、茶事のテーマを感じながら進んでいく茶事の懐石や菓子、茶などにちりばめられたメッセージを読み取る。

 

亭主と客の心が繋がったときに『茶事』の完成がある。

 

茶の湯のもてなしは一方通行ではない。

 

現代日本は一方通行のおもてなしが横行してやしないだろうか。

だから、クレーマーと呼ばれるような人が増えてわが物顔で横行しているように見える。

 

お客様は神様だ!

 

という言葉がまかり通っているように。

 

もてなす側ともてなされる側が対等に交流できる『おもてなし』の文化が日本に定着する日が来たら、胸を張って

 

お、も、て、な、し

 

と言いたい。